20080812

地理問題を予習で回し、調べる。
Wikipediaの記述を読んだり、押入から世界遺産の図鑑とか地図帳を引っ張り出してきて眺めてみたり、実はこの過程が一番楽しいんじゃないかと思うほどに。
QMA3のころ、ブルボン小林芥川賞作家の長嶋有)というゲームライターが、ファミ通のコラムで一部QMAプレーヤーのメモ行為を批判する内容を載せたことがあったらしい。メモを取るのは格好悪い。確かにそうだ。アメリカ横断ウルトラクイズが参加者に全ての問題を事前に手渡し、暗記量を競わせるような番組だったら興醒めだろう。ニューヨークへ辿り着いたファイナリスト達は、まさに歩く辞書のようで格好良かった。
ゲームセンターでQMAを初めて見たとき、自分はあのウルトラクイズのようなものを期待した。けれど実情はかなり違っていた。全国の誰もが手軽に参加できるウルトラクイズ、そんなものがあったら最高だ。できてほしいと切実に思う。でも、でもだ、こんなゲームがあればいいと誰もが望みながら、その通りにならないのがゲームじゃないか。一部のプレーヤーはずるをするし、周囲から嫌われるような抜け道を平気で使うし、ゲームマスターは予期しない改変を繰り返す。真面目にやると馬鹿を見る。古今東西のゲームはこんな憂き目に遭いながら、それぞれ独自に進化(善い悪いではないから、「変化」かもしれない)していったと思う。
でもそれこそがゲームだ。別にそれをゲームの魅力だとまで言うつもりはないが、変容の先にある異物をも含めてオリジナリティではないか。自分はその時々のゲームによっては真面目にプレイして馬鹿を見たこともあるし、抜け道を通ったこともある。
QMAのメモ行為については、とりあえず善い悪いでは決着がつかない。それはブルボン小林氏も示唆していたけれど。格好悪いという個人の感想については、十分に妥当性があると思う。でもただ格好悪いと切り捨てて無視することができず、憎しみや嫉妬を抱えたままでいるのなら、とりあえずその人には「ゲームはそういうもんだ」と言いたい。
最後に。もしゲームを主題に置いた小説を読むのであれば、参加者が皆揃って真摯なプレーヤーだったら面白くない。そういう小説で一番読み応えがあるのは、ゲームを逸脱するか改変するようなイレギュラー要素が現れる場面だ。